美術館で毎月発行している小さな情報誌
「石神の丘美術館通信ishibi《いしび》」にて連載中の、
芸術監督・斎藤純のショートエッセイをご紹介します。
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石神の丘美術館芸術監督・斎藤純のショートエッセイ
「石神の丘から vol.124」
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
さっそくですが、今月もお正月にも冬にも相応しくないオートバイの話です。
冬の間、私たちオートバイ乗りはオートバイを夢想し、オートバイに恋い焦がれます。
オートバイに乗ることができないからこそ、思いがいっそう募るのでしょう。
春になったら会津ツーリングに行こうとか、夏には北海道ツーリングに行こうなどと計画をたくさん立てます(それは計画というよりは願望に近いものですが)。
そんな思いが募りに募った挙げ句、この時期に オートバイを買い換える人も少なくありません。
そんなふうに私たちを虜にするオートバイの魅力って、いったい何でしょうか。
ひとことで言うと「解放感」だと思います。
公道をクルマと同じ条件で走行しているのに、オートバイはより自由な感覚を、乗り手であるオートバイ乗りに与えます。
この解放感はひとつ間違えると、逆走したり、信号を無視したり、過剰なスピードで走りまわるという暴走族につながります。
私たち大人のオートバイ乗りは、オートバイから得られるこの感覚が「魂の解放」であることを知っています。
暴走族のような無軌道な行為は、オートバイが与える解放感に対する誤解の産物と言っていいでしょう。オートバイによって得られる魂の解放感は、自己の内面に起こる作用なのです。
オートバイは雨が降れば濡れますし、夏は(傍で見ている以上に)暑い乗り物です。
私のオートバイは排気量が1100ccもあるのに乗車定員は二人、高速道路の通行料は軽自動車と同額です。
不便だし、実用的でもありません。
でも、雨が上がり、雲の切れ間から陽が差し、やがて青空がひろがると、その美しさに涙が溢れてきます。奥羽山脈や北上高地の山道を走っていると、森林の色や匂いの多様なことに気づかされます。
オートバイ乗りはシートに一人またがり、クルマよりも運転が難しいオートバイを操っています。
たいていのオートバイ乗りは、オートバイに乗って何時間も、誰とも言葉を交わすこともなく、孤独です。
その孤独の中でオートバイと対話し、オートバイを通して大地と対話し、ひいては自然と対話します。
それらは結局のところ自己との対話です。
つまり、オートバイ乗りはオートバイを通して自分自身を見つめざるを得ません。
その結果、魂が解放されるわけです。
これがオートバイの最大の魅力だと私は思います。