美術館で毎月発行している小さな情報誌
「石神の丘美術館通信ishibi《いしび》」にて連載中の、
芸術監督・斎藤純のショートエッセイをご紹介します。
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石神の丘美術館芸術監督・斎藤純のショートエッセイ
「石神の丘から vol.119」
私がジャズを聴き始めたのは高校生のときでした。
高校時代から岩手放送でアルバイトをしていた私は、番組でかけるLPのチェック(演奏時間をストップウォッチで計測しながら、レコードに傷が付いていないか調べるのです)などの作業を通して、ポップスやロックばかりでなく、ジャズにも触れていました。
私が高校生だったころは、盛岡市内にジャズ喫茶が4、5軒はありました。
それぞれがマスターの個性を反映して特徴があり、客層も異なりました。
その中で私が通ったのは、八幡町(住所は中の橋通)にあった伴天連茶屋でした。
土蔵を改装したお店でしたので防音効果が高く、音量の大きいジャズ喫茶には最適な環境でした。
校則では禁止されていましたが、私は学校帰りに友人たちとよく伴天連茶屋に寄りました。
学生服姿の高校生など迷惑だったでしょうけれど、マスターは決して私たちを追い出したりはしませんでした。
ちょうどそのころ、文藝春秋社から五木寛之全集(全24巻)の刊行が始まりました。
私がのめりこんだ五木寛之の小説世界と伴天連茶屋のジャズはみごとにマッチしていました。
また、伴天連茶屋にはアンノン族と呼ばれていた流行の最先端をゆく若者たちが県内外から集ってきました。
私にとって彼らは「大人の世界」でした。
彼らの世界を垣間見たことが後の私の「糧」になります。
大学に入ってからも、夏休みや冬休みのたびに私は岩手放送でアルバイトをしていたので、やはり伴天連茶屋に通いました。
そして、お酒を飲める年齢になると、伴天連茶屋はますます身近な場所になっていきます。
伴天連茶屋は岩手放送にも近かったので、番組に出たミュージシャンの接待をするのにもよく使われていました。
下田逸郎、りりぃ、吉田拓郎、そしてあんべ光俊さんと酒を酌み交わした思い出は私の宝です。
もとより、ジャズ喫茶は時空を超越した空間です。
ジャズ喫茶は盛岡にいながらにして東京やニューヨークやロサンゼルスを、ジャズという音楽を通して味わえる場所です。
そういう意味でも、私にとって伴天連茶屋はもうひとつの別の学校でした。
私がエフエム岩手東京支社に勤務していた1989年の春に、伴天連茶屋のマスターから「店を閉めることにした。
記念に文集を出すので、何か書いてほしい」と連絡があったときは愕然としました。
その後、たまに旧伴天連茶屋でライヴが開かれたりすると懐かしく訪れたものです。
7月14日早朝、漏電による出火によって旧伴天連茶屋は焼失しました。
怪我人がいないのは不幸中の幸いでしたが、私の青春の記憶をとどめている場所がこの世からなくなってしまいました。