美術館で毎月発行している小さな情報誌
「石神の丘美術館通信ishibi《いしび》」にて連載中の、
芸術監督・斎藤純のショートエッセイをご紹介します。
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石神の丘美術館芸術監督・斎藤純のショートエッセイ
「石神の丘から vol.97」
前回に続いて、本の話です。
私が1988(昭和63)年に『テニス、そして殺人者のタンゴ』で講談社からデビューしたとき、岩手日報の学芸記者が古い新聞のコピーを持ってきくれました。
それは、かつて岩手日報が主催していた読書感想文コンクールの記事でした。
コンクールに入選した小学生による座談会が載っていて、その中に小学生6年生の私がいたのです。
それを見せられるまで、私はそのことをすっかり忘れていました。
いえ、記事を見ても自分のこととは思えませんでした。
読書家だったという記憶がないのです。
私の家では父も母もよく本を読んでいました。
『オール読物』などの月刊文芸誌や『暮らしの手帖』などの月刊雑誌が家にはいつもありました。
しかし、絵を描いていたことと自転車をよく乗り回していたことの記憶に比べたら、読書に関しては実に曖昧です。
学校の図書館にあったSF小説を読んでいたことは覚えていますが(それらは都筑道夫や平井和正らSF小説の巨匠が子ども向けに書いていていたものだと後になって知ることになります)、読書感想文の対象にはなりそうにありません。
いずれにしても、両親が本を読んでいる姿に触発されて、私も本を読むようになったのでしょう。
読書週間(月間)だからとか、読書感想文を書くためにといった強制的な読書だったら、身につかなかったと思います。
私の家では、ふだんの生活に中に読書があったのです。
そういう意味で、読書のきっかけをつくってくれた両親に感謝しています。
さて、話は美術館に飛びます。
ある調査で、美術館に来ている方のうち、ほとんどの方は子どものころに学校の行事で、あるいは両親に連れてきてもらったことがあるという結果が出ています。
子どものころに美術館を経験していると、美術館に行く習慣が身につきやすいということを示しています。
逆に、子どものころに経験していないと美術館に敷居の高さを感じてしまい、行きにくくなるようです。
岩手町では、町内の小中学生が1年に1度必ず石神の丘美術館を見学することになっています。
美術館は「美術の勉強をするところ」ではありません。
多様な文化に触れ、想像力を伸ばす場なのです。
もっと簡単に言うと「美術が必ずしも一様ではないのと同じように、世の中にはたくさんの文化がある」ことを知ったうえで、「多様な文化をどのように理解して接すればよいのかを考えるきっかけとなる場」です。
美術館を経験した子どもと、そうでない子どもは、社会に出てから何らかの違いが出てくると私は思っています。
読書の習慣のある子どもとそうでない子どもの違いは、説明する必要がないでしょう。