美術館で毎月発行している小さな情報誌
「石神の丘美術館通信ishibi《いしび》」にて連載中の、
芸術監督・斎藤純のショートエッセイをご紹介します。
なお、過去のエッセイをご覧になりたい場合は、
「美術館通信」コーナーよりpdf形式でご覧ください。
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石神の丘美術館芸術監督・斎藤純のショートエッセイ
「石神の丘から vol.67」
岩手県民なら誰もが知っているはず……と思っていたのに意外に知られていないことがあるものです。
たとえば、紫波町出身の野村胡堂(作家。代表作に『銭形平次』シリーズがある)がいなければ、今のソニーはなかったかもしれないというお話。
敗戦後、まだ間もないころ、ソニー(当時は東京通信研究所)の創業者である井深大はトランジスタラジオやテープレコーダーの研究開発費の捻出に頭を痛めていました。
テープレコーダー自体がどういうものなのか知られていない時代です。
銀行もそんなわけのわからないもののために資金を貸せないと門前払い。
井深は意を決して、売れっ子作家の野村胡堂のもとを訪ねます。
井深の母(さわ)が野村胡堂夫人と大学時代の同窓生で、井深自身も子どものころから野村家に出入りしていたのです。
クラシックレコードの評論家の草分けでもある野村胡堂(小澤征爾氏が「若いころに野村胡堂の本で勉強したんだよ」とおっしゃっていました)は、トランジスタラジオやテープレコーダーの重要性を理解していましたから、井深に資金を提供しました。
このとき、野村は寄付をしたつもりだったようです。
ですから、急成長を遂げたソニーが「お金を返しに」来たことに驚き、「そんなものは受け取れない」と断っています。
なにしろ、寄付した額の何千倍もの額面(1億円)の株券になって返ってきたのですから。
つまり、井深は野村胡堂に寄付をもらったのではなく、ソニーの株を買ってもらっていたのです。
その1億円をもとに野村胡堂は野村学芸財団(奨学金と研究助成金の給付)を設立します。
家の経済事情のため大学に行けなかった胡堂の思いがこの事業に反映されています。
もうひとつ、今からちょうど90年前の1925年のこと。
盛岡に一人の少年がやってきました。
大人たちが直せなかった消防車をみごとに修理してみせると、来たときと帰るときの待遇がガラリと変わりました。
少年は「技術こそがすべてだ」と悟ります。
その少年こそ、後に世界的メーカーとなるホンダの創業者本田宗一郎です。
本田はこの経験を講演でしばしば披露し、自著にも書いています。