美術館で毎月発行している小さな情報誌
「石神の丘美術館通信ishibi《いしび》」にて連載中の、
芸術監督・斎藤純のショートエッセイをご紹介します。
なお、過去のエッセイをご覧になりたい場合は、
「美術館通信」コーナーよりpdf形式でご覧ください。
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石神の丘美術館芸術監督・斎藤純のショートエッセイ
「石神の丘から vol.48」
自分ではまったく予期していなかったものに惹かれてしまうことがあります。
言うならば、一目惚れみたいなものです。
私にとっては水墨画がそうでした。
出会った瞬間に一目惚れをし、当時暮らしていた東京都内はもちろん、
京都や富山にも水墨画を観るためにオートバイを飛ばしました。
今から15年ほど前、40歳になったころのことです。
おそらく、年齢のせいもあるのでしょう。
どこかで水墨画を目にしているはずなのに、それまでは目に入りませんでした。
きっと印象派や20世紀フランス美術を追いかけまわすので精一杯だったのです。
色彩あふれるそれらの絵に慣れた目に、
墨の濃淡だけで描かれた独特の理想風景画(山水画)は止まることがありませんでした。
40歳を過ぎて、私も「枯れた」味わいが心にひっかかるようになりました。
クラシックの弦楽四重奏を盛んに聴くようになったのもそのころでした。
だから、私の中でベートーヴェンやショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲は、
雪舟や雪村らの水墨画と何の違和感もなく、交わっているのです
(後に政治学者の故丸山真男が「弦楽四重奏は水墨画のようなもの」と述べていたことを知りました)。
水墨画は実は不自然な絵です。
なぜなら、私たちは世の中をフルカラー(総天然色)で見ているのに、
水墨画はモノクロ(墨の濃淡)で描いています。
そして、江戸時代以前の水墨画の多くは、実際には存在しない風景(理想風景)を描いています。
やがて、現実の風景をもとにした水墨画も登場しますが、
写生ではなくて、それを描いた絵師(画家)の心の中の風景なのです。
それは印象派を連想させます。
現代を生きる私たちはバロック美術も印象派も知った上で水墨画を観ます。
水墨画も昔のままでいいわけがありません。
本場の中国で水墨画の研鑽を積み、日本を拠点に活躍している王子江さんの作品は、
まさに現代を生きる我々に向けて描かれた水墨画と言っていいでしょう。
王さんの作品を観たとき、久しぶりに私は一目惚れをしていました。
そして、王さんと初めて出会ったとき(そのときはまだ当館で展覧会を開くことに
なるとは思ってもいませんでした)、運命的な出会いと感じたことを明記しておきたいと思います。
『王子江展』では、きっとたくさんの方が私のように一目惚れに陥ることでしょう。