美術館で毎月発行している小さな情報誌
「石神の丘美術館通信ishibi《いしび》」にて連載中の、
芸術監督・斎藤純のショートエッセイをご紹介します。
なお、過去のエッセイをご覧になりたい場合は、
「美術館通信」コーナーよりpdf形式でご覧ください。
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石神の丘美術館芸術監督・斎藤純のショートエッセイ
「石神の丘から vol.45」
子どもは絵を描くことが好きです。
まだ言葉を話せない時期から、クレヨンなどを手にすると、
あたりかまわず盛んに何かを描きはじめます。
たいていの家庭ではある時期からお絵描きの道具を与えなくなってしまいます。
子どもの興味が、ほかのこと(玩具であることが多いわけですが)に移るからです。
私の場合、両親が共働きだったので、
子どものころから紙と色鉛筆やクレヨンなどを与えられ、それで一人で遊んでいました。
小学生のころは字を書く時間よりもずっと長く絵を描いていたように思います。
絵といっても漫画のようなものです。
もし、あのまま絵を描きつづけていたら……と想像することがあります。
もちろん絵描きにはなれなかったでしょうけれど、いい趣味を持つことにはなっていたでしょう。
それはともかく、絵を描くという行為は人間の本能なのではないでしょうか。
人類最古の洞窟壁画は3万2000年前(旧石器時代)のものといわれています(フランス南部ショーヴェ洞窟)。
まだ人類が言語を持っていなかったころに、悪戯書きではなく、
芸術作品といってもいい絵が描かれていたのです。
そして、そんなころから私たち人類は連綿と絵を描きつづけてきているわけです。
絵を描くことが本能であるのと同時に、絵を観ることも本能なのかもしれません。
なぜなら、観る人がいるからこそ絵は描かれつづけてきたのですから。
私たちは誰もがみんな、悪戯書きだったにしろ何にしろ、絵を描きました。
けれども、成長という時間の流れがその本能を忘れさせてしまいます。
ふだんはまったく気にかけることなどない「絵」を、たまたま何かのきっかけで観たとき、
その本能が、あるいは本能の記憶がよみがえることがあります。
うまく本能をよみがえらせることができた人は、
おそらくそれまでよりも何倍も豊かな人生を歩むことができるでしょう。
石神の丘美術館が少しはそのお役に立てるかもしれません。