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芸術監督のショートエッセイ 石神の丘から vol.101

美術館で毎月発行している小さな情報誌
「石神の丘美術館通信ishibi《いしび》」にて連載中の、
芸術監督・斎藤純のショートエッセイをご紹介します。

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石神の丘美術館芸術監督・斎藤純のショートエッセイ
「石神の丘から vol.101」

 

この連載で何度かクラシックのことを書いていますが、ジャズについてまだ書いていないと気がつきました。

私にとってジャズはクラシックよりもずっと長く深い付き合いがあるのに迂闊でした。

 

これまでに何度も触れたように、私の自宅は映画館の中にありましたので、映画音楽を聴いて育ちました。

クラシックもジャズも映画音楽として私の耳に入っていたわけで、特にクラシックであるとかジャズであるとか意識してはいませんでした。

 

そんな私がジャズを意識して聴くようになったのは高校生になってからです。

私は学校での授業よりも学外での授業を重視するタイプの生徒だったので(つまり、不良高校生ということです)、授業が終わるとクラブ活動(一応、バスケットボール部に籍だけは入っていました)にも出ずに、伴天連茶屋というジャズ喫茶に一目散に向かう毎日でした。

高校に進学するのと同時に岩手放送ラジオでアルバイトをしていましたから、ジャズ喫茶に入り浸るくらいの小遣いは自分で稼いでいたのです。

 

土蔵を改造したそのジャズ喫茶には、いつも怪しげな大人たちが屯していました。

その大人たちとは、後に劇作家として活躍するおきあんご氏や、水彩画の巨匠となる藤井勉さんたちなわけですが、その当時はそんなことはまだわかりません。

私はそんな大人たちの中に混じって、何かいっぱしのことを語り合っていました。

店内に流れるジャズよりも、むしろそういうことが楽しかったのです。

 

夏休みや春休みのシーズンになると、東京から最新流行のファッションに身を包んだ若者たち(雑誌「アンアン」、「ノンノ」の影響からアンノン族と呼ばれていました)がやってきます。

そんな人たちと接することができるのも伴天連茶屋の魅力でした。

 

そうこうしているうちにジャズにも詳しくなっていき(というよりも、体にジャズが染みこんでいったのです)、高校を卒業するころには一端のジャズマニアになっていました。

 

また、それまで本格的なコンサートホールがなかった盛岡に岩手県民会館ができ、アメリカから有名なジャズメンが来るようになりました。

父は映画館勤めを辞め、岩手県民会館の職員になっていたので、裏からもぐりこませてもらって(ホントはいけないのですが、もう時効でしょう)、いろんなコンサートを聴きました。

 

私の高校・大学時代は盛岡市内にジャズ喫茶が5軒はありました。

盛岡のジャズの黄金時代だったのです。

そして、それぞれのジャズ喫茶に個性があり、常連客の顔ぶれも違いました。

そういう違いもジャズ喫茶に行く理由のひとつであり、私は大きな影響を受けました。

 

つまり、ジャズは地方の小さな都市においても単なる音楽ではなく、ある意味で文化の核となっていたのです。

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